制作

LIPHLICH TIMES 4『7 Die Deo』

「ある日突然ドブネズミが美しくなることもあるよ。まぁ君がそのドブネズミかどうかは別としてね。」「平気な顔して人を殺める奴だっているさ。まぁそんなこと今の僕らには何の関係もない話だけどね。」…Oh!! soooo ナンセンス!!

とは言えど、「例えば」と「もしも」の言葉遊びは実に面白い。
何故なら、そこには意味はなくとも夢、ときどき愛があるからだ。
ただ、こんなにも親しみ深い御両人でさえ、ひとたび使い方を誤れば私たちに悪魔の様な一面を見せることがある。
というのも、用心深く臆病な人間の脳は一度悪い方向へ思考を傾けた際、この「例えば・もしも」と輪をかけて負の思い込みを無限に増殖させるのだ。
それも、事実として確認出来ている不安だけでなく、今はまだ存在していない架空の壁や敵をも自ら創造し生み出してしまう始末。
言うなれば、肥料も水も必要ない苦悩の自給自足か。
いやはや私たちは一体どこまでマゾヒスティックな性分なのだろう。
パン工場で自らアンパンマン作りに勤しむバイキンマンがどこにいるっていうんDie Deoって話である。

「見えない敵」なんてこれまたキザな例えに興じるのも結構だが、そりゃあ居ないものは見えなくて当然。
ヒトがifに戦慄するのも、誰かに失望するのも、自身に価値を見出せないのも、結局のところ原因は以下のふたつに過ぎない。
ひとつは、「万人に期待を寄せてしまう脳」、もうひとつは「既成概念や世間体に捕われたがる心」の所為。
これがどちらも無意識だというのだからタチが悪い。
しかし、「自惚れ」と「見栄」なしにヒトなどまず成立しない。こちとらそんな綺麗に出来ちゃいないのだ。
それは、あの美しく捻じれた脳をお持ちの唄うたいもまた例外ではないのだろう。

本作でマイクを握るのは、9日前に地上で最もハッピーバースデーな男として崇められた詩人 久我新悟。の!描く架空のヒーロー。
自身の弱さを掌握している詩人はどんなに博学な賢者よりも聡明だが、芸術の上では相も変らぬ傲慢さを見せつけてくれる。
この作品が誕生したことから察するに、どうやら完璧主義者にして極度のロマンチストな彼の憂鬱を打ち倒してくれるヒーローは、待てど暮らせどそこには現れなかった模様。
いや、例えそれらしき人物が現れてもあの天邪鬼青年のことだ、その御眼鏡に適わないダサいヒーローになど助けられたくはなかったのだろう。
ともすれば、打開策は至ってシンプル。救いのヒーローが現れなければ、その手で作り出してしまえばいい。
それに相応しい演者が見つからなければ、優雅な所作・余裕の眼差し・先導力に満ちた口調に至る全てを自らが演じきればいい。
しかし、実際に仕上がってみたらどうだろう。
それはなんてことのない普段私たちがステージ上で目にしているLIPHLICHの姿そのものだったのである。

己を救うために作り上げた最強のヒーローが大衆にとっての自分自身であることに彼らが気付いているかどうかは別として、この『7 Die Deo』が「LIPHLICHに代役なし」の言葉をより確かにさせる物的証拠となったことは認めざるを得ない事実だ。
ヒーローは説く。

「常識も価値観も正義も正解も、人生を揺るがすそれら全てはどれも流動的できまぐれなものである」と。

たまたま隣り合っただけの今日と明日に起こる些細な偶然なぞに気を病むなんてこたぁあまりにも馬鹿馬鹿しい。
しかし、人間というやつはその身に降りたひとつの不幸に必然性を見い出そうと、ありもしない粗を探しこじつけようとする厄介な生き物だ。
それが自身をより脆くさせる自傷行為であることにも気付けないまま、その生涯あと何度同じことを繰り返すつもりなのやら…見るに見かねた彼は、迷える人々を前にこう諭したんだそうな。

「偽物の自分などありはしない。何を疑ったところで答えなんてどれも同じだ。ならば躊躇わず、好きに生きてみせろ。」と。

荒々しいその口ぶりに反し、この歌は多くの臆病者にとって人間賛歌にもなり得るだけの優しさを抱えていた。
たしかにそうだ。誰も彼も投げられた賽ほどに気まぐれな感情を連れ人生を歩んでいるというのに私たちはその何に怯え、ナァニを期待しているというのか。
長きに渡り綴られてきた「久我新悟ナンセンス劇場」の本質。それは意外にも、埃ひとつ被っていないピカピカの愛だったのかもしれない。