海外版DVDを見てみた 第4回『シャーリー・クラークを見てみた』 Text by 吉田広明
シャーリー・クラーク
今回取り上げるシャーリー・クラークは、前回取りあげたモーリス・エンゲル=ルース・オーキンとは様々な意味で対照的な作家だ。エンゲル=クラークがアメリカのインディペンデント最初期の作家でありながら、その後不幸にも忘れ去られ、しかし今やDVDという形でその全作品が観られるようになったのに対し(作品数自体少ないし)、クラークはジョナス・メカスと並ぶインディペンデントの最も有名な作家であり、しかしその作品自体はと言えば、本国アメリカですら、かつてソフト化された作品も最早手に入らず、実際に観ることができないのが現状である(メカスやクラークが設立した、インディペンデント映画の配給会社も倒産しているようなので、上映も出来るのか出来ないのか)。エンゲル=オーキンが、写真家としてはフォト・リーグに所属し、政治的な態度表明をしているのにもかかわらず、映画の中にはそうした政治性をほとんど全く持ち込んでいないのに対し、クラークはハリウッド的な映画に対するオルタナティヴとしてのインディペンデント映画を運動として強力に打ち出し、また女性映画作家としての自身の立場を常に主張する、極めて政治的な映画作家であった点も対照的だ。クラークは、六十年代の前衛文化のただなかにあって、黒人文化(とりわけジャズ)の分野でも重要な役割を果たした人物でもある。アメリカの六十年代という時代は、筆者の不勉強故にいまだ未知の領域の多い時代であり、クラークの作品の中で見ることができた作品が限られたものであることもあって、自分がクラークの意義を完全に把握しきれているような気がしない。かつては日本でも相当影響力のあった作家ではあろうと思うし、当時の日本の映画ジャーナリズム資料等を漁ればそれなりの量が出てくることも予想されるが、あえてそれをしないでおこうと思う。当時と今では政治的なものに対する熱が違う。熱に浮かされて見ていた当時と、それが冷め、単なる一個の映画として見た時とでは、受け止め方はまるで異なるだろう。以下は題名通り、筆者が今、「見てみた」という報告であること、しかも中間的なものになるだろうことを予めお断りしておかねばならない。クラーク映画のジャズに関しては本ホームページの上島春彦氏のコラムでもいずれ取り上げられるのではないかと思うし、また今後本稿で様々なインディペンデント映画も見てゆくと思うので、その後の知見を反映させた上で改めてクラークに触れることもあろうかと思う。我々は(私は)まだまだ(アメリカ)映画について知っているとは言えないのだ。