制作

LIPHLICH TIMES 8『SKAM LIFE’S IS DEAD』

 

西暦2010年

東の街からやってきた世にも珍しい人間の見世物小屋。
猫目の伯爵が引き連れたその奇怪なショーにある日、麗人ウェンディが招かれる。
約8年にわたり世間を賑わせているロングラン・サイドショー『LIPHLICH』は、厭味な伯爵がウェンディに恋をすることから幕を開けた。

現代を生きる人間の滑稽な仕草・言動・行動のすべてを皮肉った演目の数々。
そのあまりの無様さに腹を抱え嘲る伯爵をよそに、ウェンディは笑顔のひとつも見せることなく、終演を待たずして席を立った。
プライドの高い伯爵は初めての大失恋に苦し紛れな理由をつけ、自身を慰めようとしたが、その試みも虚しく、生涯癒えることのない傷を負うことになる。

そんな日々が続いた、ある日。
悲しみに揺れる頭で、彼はこんなことをひらめく。

「程度の低い人間共を喜ばせることさえ出来れば、あの日蔑んだ目で僕から去っていた彼女に振り向いてもらえる筈だ。何故なら、彼女も奴らと同じ人間なのだから」

そう踏んだ彼は、あろうことかあれ程までに嘲笑してきた見世物へ自らおちる決意をする。
いやはやこの男、なかなかに単純であるようだ。

人間を演じる。来る日もくるひも。
今日はシェフ、明日はペテン師、明後日は賭博者。
永きにわたり人間を馬鹿にしつづけてきた彼は、ヒト以上にヒトの生態を熟知していた。
その見事なまでの憑依芸に人々は魅了され、いつしか彼は多くの「人間共」に愛されるスターとなっていた。

壇上を見回せば、そこにはいつもと同じ顔ぶれ。
彼は、自身を囲うこの3人を心から信頼し、共に創りあげる舞台と表現を何よりも溺愛した。
しかし、必要とされる喜びを知った彼は、その代償に失うこと・飽きられてしまうこと・忘れられてしまうことに酷く怯える様になる。
これまでに演じた数々の役のなかでも演題『ミズルミナス』で見せた彼のパフォーマンスが図抜けて鬼気迫る名演であったのは、そのすべてが「演技」ではなかったせいだ、と口にする評論家も少なくない。

人間を演じつづける。生まれながらにヒトであったかのように。
目下には日常から切り離された空間で高揚と歓喜に乱れ、求愛の声をあげる人々の姿。
そんな観衆を、未だ忘れることのできない最愛の人に見立て、彼は今宵もその名を喚呼する。

ひとつの芸術を共有する感動。
それを「分かつ喜び」とした彼は、そこに集う人々への愛を止められなくなり、次第に自身の中のとある変化を意識し始める。

「もしかすると、僕はあの日に離れた彼女の名ではなく、愛を注がずにはいられないすべての”大切”を”ウェンディ”と呼んでいるのかもしれない」

明確な「守るべきもの」を見つけた彼は、「台本のなかに存在する”既存の他人”を演じること」に物足りなさを感じてしまい、やがて自ら脚本を手掛ける様になる。
そうして、あの日の伯爵は今、詩人 久我新悟として今日も眩いライトと多くの歓声に照らされながら、膨大な悲しみと僅かな希望を糧に生と死を謳っているのである。
放っておけば治癒する傷にわざわざ触れ、まるで悦に浸るかの様な表情で表現を続ける彼のような男を伯爵界で何と呼ぶかは知らないが、人間界でいうところのそれは、完全なる「変態」に他ならない。

2018年1月24日
彼が世に提示した「生きるために死ぬ」という遺言の様な文書。
自身の弱さについてすすんで触れようとはしない彼らしからぬ言葉たちは自戒そのものであった。
その一言一言から滲み出る不穏な覚悟があの夜、ウェンディを不安の海に沈めたことは言うまでもない。

それからというもの、彼はおろか、新井崇之、進藤渉、小林孝聡からも一切の情報発信が途絶え、無言のままに迎えた2月4日『幻想空想二重想』ツアー最終公演。
Kraとの夢の共演に沸きながらも、どこか緊張感の拭えない客席を前に彼はゆっくりと口を開き、こう言った。

「これからもずっとLIPHLICHは続いていきます」

張り詰めた不安の糸が解れた先で響き渡る『夜間避行』は、格別なものであったことだろう。

しかし、だ。

終演後の20:30
次なる指標がサイト上で発表され、そこには目を疑う様な公演タイトルが記されていた。
それこそが何を隠そうあなたが今まさに体験したばかりの『SKAM LIFE’S IS DEAD』である。
「LIPHLICHはそんなにお利口ではない」という基礎中の基礎さえ忘れてしまうほど、発表前の我々は安堵で隙だらけだったことを思い知らされる。

ただ、LIPHLICHはそれが表現の為であっても、ウェンディに対して非情に成り切ることが出来なかった様だ。
終わりを色濃く予感させる為にとことんまで演出し、今日に至るまで沈黙を貫けば、より『SKAM LIFE’S IS DEAD』という史上最悪な公演タイトルに相応しい致死量の緊迫感を得ることが出来ただろうに、前述の通り久我新悟は自らLIPHLICHが続いていくことを宣言したばかりで、そのうえ彼を筆頭に全メンバーが本公演に対する真摯なメッセージを提示する始末。
更にそれに飽き足らず、迫る大舞台にかつての戦友 丸山英紀を迎え入れることまで余すことなく我々に伝えたのである。

「不安を餌に集客を図る」という商業的に決して誤りとは言い切れないその選択を自ら絶ち、予め事の経緯を開示した上で過去のLIPHLICHを死なせ、新たな生を誓うというのだ。
そんな彼らの姿勢を表現者としての「甘さ」と取るか「強さ」と取るかは、人それぞれであろう。
しかし、それを伝えたうえでも尚霞むことのない鮮やかな衝撃を我々に見せつける自信があるのだと、そう捉えるのが自然とさえ思えるのだから、実によくしつけられた客である。

きっと、初めて好きになったバンドがLIPHLICHという人はそう多くない。
面倒がらずに今この文字を追ってくださっているあなたにも幾度とないアーティストとの別れがあったことだろう。
「形あるものなんとやら」「永遠なんてなにがし」なんて言葉が何の薬にもならないことなど百も承知な我々の手元には、幸いにも最高の特効薬がある。
それは、目の前の「生きているバンド」に夢中でいられる「今」という時間だ。
憧れの人に、新しい作品に、未だ見ぬ世界に会える約束が我々にはまだ存在する。
しかも、あろうことかそれがあのスーパーかっけぇLIPHLICHだというのだから、人生捨てたもんじゃない。
いや、むしろそんな人生なら何度でも拾いたいくらいである。

春の陽気に手伝われ、より冷めにくい余韻を抱え歩く帰り道。
もしも今、聞き覚えのある例の口調で「君の目から見る世界はどんな感じ?」と尋ねられたら、あなたはどう答えるだろうか。
その問いに対するLIPHLICHとウェンディの回答がお揃いであります様に、と、どこか確信めいた願いを胸に昨日よりも少し明るく見える夜をゆく。

2018年4月8日
『SKAM LIFE’S IS DEAD』
LIPHLICHが死に、新たな生を宿した日。

ハッピーバースデーリフリッチ。
東の街から、もう一度はじめよう。

あざちゃん
あざちゃん
ついでに制作秘話も読んでね。